戦争とソードラインと希望

 なぜ戦争が起こるのか?という問いはほぼ人類始まって以来の問いであり、もちろんこれに対して私個人はもとより、精神分析も、哲学も、科学も満足いく答えを出せているわけではない。長い人類の歴史のなかで延々と議論され続けているわけである。 

 そう、議論し続けることができるのが人間のいわば希望の部分なのである。殴りあったり、剣で切りつけたり、銃を撃ったりはせず話し合う。英国の議会では、与党と野党が対面する構造になっている議場で双方が論戦を戦わせる。時折テレビのニュースで映ることがあるが、それぞれの陣営の座席の前に赤い線が引いてある。これは「ソードライン」と呼ばれるもので、昔は議論がヒートアップすると剣を抜いて相手に切りかかる議員もいたことに由来するらしい。そこでこのラインを越えてはいけないという規則を設けたのである。 

 どんなに話が互いにとって我慢ならない局面になっても、決して暴力は振るわない、という合意が形成されるまで多くの労力が必要とされたことは英国の歴史を紐解けば見えてくる。「決して暴力に訴えることなく話し合い続ける」という合意を形成し、それを守り続けること、それにより社会は発展していくという信念が民主主義の根幹であろう。 

セラピストの想い

 精神分析的サイコセラピーもじつはこうした民主主義の根幹に基づいている。もっとも、話し合われるのは、社会的事象や政策ではなく、一人の人が人として生きていくこととにかかわることである。セラピストとの関係を築き上げ、それを展開する中で、その人の人となりが現れてき、ときとして話し合いはヒートアップするかもしれない。言葉で話すことは、簡単ではなく、当初は、振る舞いや仕草や雰囲気や空気という形でしか現れないかもしれないし、場合によっては、暴力的な形での「表現」を生むかもしれない。 

 痛みを抱えることは時に難しく、耐えがたくなると、自分を守るために暴力に訴えるかもしれない。本人が現実と思っていることと、他者が現実と思っているものとが大きく食い違い、その違いを乗り越え、自分を守るために話し合いでは不可能と判断し、暴力に訴えるかもしれない。セラピーを求めてくる人の多くは、自分の感じていることや経験していることは家族や会社や社会の主流派には認められないものであると感じている。 

 精神分析的サイコセラピーでセラピストは、言葉にならない/なりがたい、こうした少数派の異なる現実を見る視点を否定するのではなく、想像力を働かせ、理解しようと努める。つまり、話し合い続けようと努めるのである。 

人類の歩み

 おそらく、戦争は人間の本性から起こるのであろう。しかし、いまだ十分ではないことが判明したとはいえ、人類は、暴力に訴えず話し合い続ける枠組みを築き上げてもいる。精神分析による「話し合いの枠組み」の実践は、そのささやかな、しかし着実な歩みの一つと言えるであろう。