昨今、ある雑誌のインタビューで、アーティストの宇多田ヒカルさんが、精神分析を受けていることを話されたことが静かな話題になっているようだ。このIPPOにもその記事を読み、精神分析を受けたいと申し込んでくる方が何人かいる。

 正確に言えば、IPPOでは、精神分析ではなく、精神分析的サイコセラピー(心理療法)を提供する。精神分析は、一般的には、週に4,5回、定まった時間に45分から50分間、精神分析家に分析を受けるものである。一方で、特にこのIPPOでは、週に1回、ないし2回、定まった曜日と時間に50分間、サイコセラピスト(心理療法家)にセラピーを受ける。

精神分析と精神分析的サイコセラピー

 このふたつは、先に述べたように頻度回数の設定が異なるが、精神分析的サイコセラピーは、“精神分析の子ども”とも言われるように、そのエッセンスは、精神分析に基づいている。では、精神分析、あるいは、精神分析的サイコセラピーの体験は、どのようなものなのだろうか。

精神分析的体験

 私たちは、自分のことを自分が一番よく知っているとどこかで思っている。あるいは、自分がわからないと感じている人もいるかもしれない。以前のコラムでも述べたように、精神分析とは、自分でも知らない自分の無意識の領域に足を踏み入れることである。そして、このセラピーの方法は、自由に何でも思い浮かぶことを話していく、というのがただひとつの決まりである。これは簡単なようで簡単なことではない。話すということは、話を聞く相手がいるということである。それはまた、自分の話していることがそのまま相手に伝わるとは限らないし、自分の思っていることと異なる思いを持っている他者と向き合うという体験でもある。それはある意味、わかっていたはずの信じ切っていたはずの自分の世界が壊れることでもある。とまどい、疑いも当然出てくるだろうし、同じでないことへの憎しみも出てくるかもしれない。それらも含めて、セラピストとの関係が深まっていくにつれて思ってもみなかった自分の世界を見、知ることになる。

 この体験を宇多田ヒカルさんは、「自分の中のジャングルに行くみたいな感じ」と表現していたように記憶している。そう、皆、自分の中に未知で薄暗く何が出てくるのかわからないジャングルを持っている。そこをセラピストと一緒に探検していくのが精神分析的な体験なのである。

 彼女は、その体験をジャングルに行くような、と表現したが、私の担当したクライアントさんの中にも「森に入っていく夢」を見た方がいた。私自身も精神分析を受けた時に、深い森に何やら文字の書いてある赤っぽい靴をはいて入って行く夢を見たことがある。彼女は、精神分析家をジャングルの案内人に例えていたようだが、私の赤っぽい靴は、その色故に見失うことのない精神分析家だったのかもしれない。その深い森に入っていくのに、一人では、とても入っていけないし、素足ではとても危険なのである。

自分を探索していくということ

 自分でも知らなかった自分を探索していくこと、深い森をセラピストと共に探索していくことがこのセラピーだと言えるかもしれない。栄養を与えてもらったり、やさしく肯定してもらうことだけを期待していると失望するだろう。しかし、それを求めていたのも自分であるし、失望するのも自分なのである。この深い森には、思っても見なかったことが待ち受けている。しかし、ジャングルは、深い森は、生命の源でもある。精神分析的セラピーの体験とは、セラピストと共に、この生命の森をしっかりと歩き続け、闇も光も十分に享受することだともいえるのではないかと私は思う。