人はその見るところのものになる

 私が幼少期を過ごした小さな町は、瀬戸内海の海辺にある。海を目指して歩くと、左手に小高い山が見えてくる。海底が隆起してできたその山は、巨大な花崗岩の岩を山頂に乗せている。ちょっと日本ばなれした光景だ。岩の上に立つと、光る内海が穏やかに広がっている。

 子どもが少し大きくなると、子どもたちを連れて山登りをするのが正月の恒例行事になった。ある年、その大岩の上から凧を上げると、凧は強い浜風に乗ってぐんぐん上がった。凧糸を最後まで送り出すと、凧は青い空に張り付いた。子どもたちと私はほぼ同時に「こわっ!」と声を上げた。私の心は空の一部になった凧に移動して、そこから地上を見ているような気持ちになったのである。人の心の一部は、その見るところのものになるのである。

 凧でさえそうなるのだから、相手が人間であれば、こうした心の「やり」「とり」はもっと深く相互的なものになる。私たちは自分の心の一部を相手にやっているし、相手の心がそれに反応したものを受け取っている。

二つの心が協働す

 精神分析的な設定の中で、つまり同じ場所と同じ時間に分析的な訓練を受けた治療者と会い始めると、私たちの奥のもっとも痛んでいる苦痛な心の一部が、治療者の心の中に、またその関係の中に移動してくる。

 では、治療者やその関係の中に移った心の奥の痛みは、理解されて変化するだろうか。その際に私が大切だと思うことは、治療者の中に精神分析的対象がいることである。それはつまり、治療者自身が自分の痛みを誰か他者に理解され、育てられた体験を持っていて、その体験が治療者の中に生きていることを指す。治療者とその内的対象のつながりから創造的な理解が生み出されてくることを知ることは、私たちが自分自身の心をもつ端緒となる。

 そのような治療者に出会うことは、代え難い体験になるだろう。というのは、私たちの痛んだ心はその人によって受容されて変化を被るし、同時に治療者の心にも変化や成長が生じるからである。また、そのような相互的なやりとりを通して、私たちは自分自身のこころをもつようになるからである。