人権というと何やら固い印象を受けて身構える人が多いかもしれない。「人権擁護」とか「人権団体」となるとその政治的な色合いに忌避感が強くなる場合もあるだろう。あるいは「わがまま」「自己主張ばかりする」といったイメージともつながりやすいように思う。とかく、人権という言葉はどちらかというと評判が悪い。まして、カウンセリングや心理療法などとは無関係に思えるかもしれない。
ある女性が、SNS上で、おそらくご自分のお子さんのことなのだと思うが、「イヤイヤ期すんごい。こんなにイヤイヤすることで人類は何を得ているのだろうか」と書かれていたので、私は思わず「人権宣言」と書いた。
いやいや期
大人である私たちは、何もできないし、わかっていないように見える子どもたちに対して、「こうしなさい」「それはしてはだめ」と伝える。それは間違いなく必要なことであり、親としての義務でもあるだろう。子どもが外に行きたいというので、「じゃあ仕方ない、お出かけしよう」と決めていざ出かけようと玄関で靴を履くように促すと、子どもが「靴は嫌だ」と言う。「裸足ではお外へは行けないよ」と言っても聞かない。こうしたほとんどの親にとってなじみのある悪夢の状況を思い浮かべてみよう。通常、こうした場合大人は、外に行くのに靴を履くのは必要なことなので、子どもが理不尽でわがままなことを言っていると受け止めがちではないだろうか。
こうした際に、「正しいこと」を子どもにさせるために、すなわち「躾」のために、子どもを威圧したほうがいいと考える親御さんも少なくないだろう。その中には叩くなどの身体的暴力や非難するなどの心理的暴力が含まれるかもしれず、そうなるとそれは躾ではなく、児童虐待防止法で定められた児童虐待にあたる。
プラトンの『国家』
プラトンは『国家』の中で、理想の国家は賢い哲学者が統治する政治体制だと書いている。何が正しいか分かっている賢い人が国を統治するのが理想だというわけである。これはある意味もっともなことのように聞こえるが、私が思うに、最大の、そして解決不能な問題は誰がそのような哲学者であるか、というものである。歴史を紐解けば、様々な国で「自分は何が正しいか分かっている」という人が現れ統治をしたが、たいていはろくなことにならなかったように見える。
主体性と心理療法
2歳児との対話に戻ろう。外出するのに靴を履くのは当然だし、靴を履かないのは理不尽かもしれない。しかし、もしかしたら靴を履かずに外出するのも楽しいかもしれない。そうでなくても、結局靴を履くことになり、単に時間を浪費しただけに思えるかもしれない。それでも、その子が、靴を履きたいタイミングで靴を履くということがとても大切だったかもしれない。そう、どのタイミングで、何をするか、結局その子が決めることであるということは実のところ、極めて重要なのではなかろうか。人生において正しい生き方というのはない。もしあるとすればそれはロボットのように決められた動きをしているだけである。すべて自分で選んでいくのが「人生を生きる」ことの本質である。それが、人の人生ではなく、「自分の人生を生きること」なのである。それを可能にする主体性の芽は2歳児のいやいや期にはある。したがって、それは大人の「正しいこと」からの専制にあらがう人権宣言なのである。そしてチャーチルが言ったように、民主主義は効率が悪く、最悪であるがが、他のすべての政治形態よりましなのである。
心理療法は大人の中の2歳児の人権宣言から始まる、対話であるとみてもよいだろう。それは効率が悪いのは確かであるが、他の方法では得られないものが得られる可能性があるように思う。