人は、ひとりでは育つことはできません。人の成長は、他者とのコミュニケーションによって生じます。私たちは、生まれて直ぐから言葉を伴わずとも他者とコミュニケートしています。
今回は、このコミュニケーションについて考えてみたいと思います。
人が育つということ
先ず初めに赤ちゃんを思い浮かべてみましょう。胎内から無防備な状態で人間世界に生れてくる赤ちゃんは、自分が何を思い、何を考えているのか知らない状態にあります。それからどのようにして一人の人間に育つことができるのでしょうか。それはお母さんを初め養育者の世話を受けて少しずつ成長していくからだというのは自明のことです。
この世話について考えてみましょう。この世話には無数のコミュニケーションが含まれています。ミルクを与えてもらうと同時に、見つめ合いや抱っこ、皮膚接触がそこにはあります。また赤ちゃんは、自分の未だ言葉にならず自分では意味の分からない苦痛、たとえば空腹の苦痛、身体の痛みや不快の苦痛、放ったらかしにされる苦痛を訴えます。養育者はそうした苦痛を察しようと努め、ことばかけをしながらおっぱいを与えたり、おむつを替えたり、室温を調節したりします。こうした世話によって赤ちゃんには、自分の苦痛の意味が次第にわかるようになってきます。そして、やがてこの苦痛を言葉で伝えることができるようになってきます。
精神分析的サイコセラピーで生じること
このように赤ちゃんが成長するためには、お母さんが赤ちゃんの必要としているものを察知してそれを言葉に変えて与えることが必要不可欠です。
ここには、言葉によるコミュニケーションと言葉によらない(非言語的)コミュニケーションが無数に展開しています。
セラピストは、来談者の苦痛やこころの状態を理解しようと努めます。それらは言葉だけでなく、身体の状態や雰囲気で表現されるかもしれません。赤ちゃんが何千回、何万回も養育者とコミュニケートするように、セラピストと来談者は、繰り返し、繰り返しコミュニケートしていきます。セラピストは、時に間違って受けとったり与えたりすることもあるかもしれませんし、また“良薬口に苦がし”というように、心地良いものだけを与えるわけではないかもしれません。それは試行錯誤の過程でもあるのです。
意味を知るための相互的コミュニケーション
先ほどは、赤ちゃんの例を書きましたが、大切なことは、お母さんは一方的に赤ちゃんに与えるのではないことです。赤ちゃんは、言葉にならなくてもたとえ微細であっても自分の状態を何らかの形で表現します。それにお母さんは対応します。その対応への赤ちゃんの反応によってまたお母さんは考え、赤ちゃんが何を訴えているのか、何を求めているかを試行錯誤します。このようにコミュニケーションとは一方的なものではなく、相互性なくしては成り立ちません。精神分析的サイコセラピーにおいてもセラピストと来談者との相互的な関係性が展開します。赤ちゃんの苦痛はお母さんの苦痛でもあり、赤ちゃんの喜びはお母さんの喜びでもあります。そこには互恵性があり、それによって成長や発達や変化が生まれてくるのです。
人が育つには、共に理解し、伝え合うコミュニケーションが必要不可欠であり、それによって人は苦痛の意味を知ることができます。意味を知ることは考えを促し、新たな世界に開かれることでもあります。
精神分析的サイコセラピーは、この相互的コミュニケーションを基盤としています。コミュニケートすることは、人間としてより良く、より深く生きていくのに不可欠な要素であるのです。