『砂男』

 精神分析の創始者のフロイトは、生涯、大量の論文を書き続けた。そのフロイトに1919年公刊の「不気味なるもの」という論文がある。この論文は、世界大戦が起こり、患者があまり来なくなったので以前にも増して精力的に論文執筆をしていたころに書かれたもののひとつである。その中で、フロイトは、ホフマンの伝奇小説『砂男』を取り上げている。『砂男』の主人公は、子どものときに、母親に夜は寝室から出てはいけない、出ると砂男が来て目をくりぬいてとっていくと言われる。しかし、主人公はある時、寝室を抜け出し、父親のいる部屋を盗み見し、そこにコッペリウスという男がいることを知る。その男に見つかった主人公は目をくり抜かれそうになる。小説では、そこから夢か現実かわからない不気味な世界が展開していく。

 

不気味なるもの

 フロイトは、「不気味な」という言葉そのものに吟味からこの論文を書き始めている。ドイツ語で「不気味な」はunheimlichであるが、それがheimlich、すなわち「家のよう」、「馴染みのある」から派生していることを指摘する。heimlichという言葉には、さらに「秘密めかした」、「謎めいた」という意味が加わり、そこからunheimlichすなわち「不気味な」という言葉に転じる。つまり、ドイツ語の世界では、「不気味なるもの」は、もとは「馴染みのある、家のようなもの」から派生したものであることがわかる。

 さて、『砂男』の話に戻ろう。成人した主人公は、コッポラという晴雨計売りと出会い、望遠鏡を買う。そしてその望遠鏡で覗き見た家の女性に恋をしてしまう。しかし、その女性は自動人形であり、目をくりぬかれているのを見出す。最後は、やはり望遠鏡を覗いて気が狂った主人公は塔から身を投げて死んでしまう。その場面には、コッぺリウス=コッポラの姿があったのである。

 

不気味なるものの正体?

 この小説は、覗き見ることとの関連で、砂男が出現するというテーマが何度も反復される。フロイトの考えでは、「馴染みのもの」から排除したものが、「不気味なるもの」として戻ってくる。そしてそれは反復されるのである。それでは何が排除されるのであろうか?彼の考えでは、それは恐ろしい処罰する父親なのである。『砂男』の主人公にとって、父親は、親切な父親と厳格な恐ろしい父親、(恐らくは両親の性的関係)「覗く」ことを許さない父親の二つに分裂されており、そのうち恐ろしい父親は、主人公の心から排除(抑圧)される。しかし、それは繰り返し、「不気味なもの」として戻って来るのである。

 以上のフロイトの理解は、彼のエディプス・コンプレックスの理論に基づいている。このような『砂男』の理解は、それなりに説得力があるのは確かである。しかし、『砂男』の話の不気味さはそこに帰着できるのであろうか?私には、寧ろその奇妙な反復性に不気味さの源があるように思われる。実際、フロイトはこの論文の後半で、そのように書いており、そしてこのような反復性には「悪魔的な性格」があると述べているのである。この「悪魔的な性格」を持つ何かという考えは、同時期に書かれた有名な『快原理の彼岸』の中で死の欲動として概念化される。

 戦争や虐殺、そして虐待と、人は愚かで無益な残虐な「悪魔的」行為を繰り返す。これは大変馴染みのある考えではあるが、よくみればその反復性そのものに非常に不気味な、「悪魔的な性格」を持つものが潜んでいるように思えてくるのである。しかし、それは私たちの「馴染みのある」世界から排除されたものが回帰してきたことに他ならないかもしれないのではないか?つまり、私たち自身の姿ではないか、と。100年以上前に、フロイトはそう問いかけているのである。